お寺の食事作法を学ぶ会に参加しました

2016.1.15

みどりでーす!

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

新しい年になりました~
新年ならではのすがすがしい気分、みなさんまだ続いていますか?

今回の『みどりの作ってみたくなるお料理』はいつもと少し雰囲気が違います♪
普段ずっと気になっていた、“子どもたちに食べ物のありがたさを伝えたい”という思いをなんとか実行に移すため、新しい年の始まりにふさわしい、とあるワークショップに参加してきました。

食べ物のありがたさを子どもたちに伝えるために

そのワークショップは、“お寺の食事作法を学ぶ会”
食事を口にするまでの儀式が学べます。
今回は皆さんに、その感動のエッセンスをお伝えできればと思います。
まず自分たちの使う器を出してから、1回目のお経を唱えます。(お経の内容はとても難しいので、わかりやすい部分を抜粋し現代語に訳してご紹介しますね)
「ただ空腹を充たすだけの食事ではなく、清らかな仏の境地を共々に味わえますように」
一同合掌。
生まれて初めてお経を唱えました。なんだか、背筋がピンと伸びるような心境・・・
素朴な食事の飯、汁、香菜、別菜を受け取ります。

16.01.015_2

そして、2回目のお経が始まります。
「この食事ができるまでにかけられた多くの手間や苦労に思いをめぐらし感謝します。
この食事を頂くだけの正しき行いをしているかを反省します。
むさぼり、怒り、愚痴といった過ちの元を断つための食事となるよう自らを戒めます。
味のこだわりを離れ、身心を保つための良き薬として節制します。
道を成すという願いのためにいただくことを誓います」
一同合掌。
“この食事を頂くだけの正しき行いをしているか”とか、普段考えないなー。深く反省。
でもこれでやっとご飯が食べられる~♪と思っていたら、まだ続きがありました!

ここで、生飯(さば)を行います。
生飯とは、“食事の前に餓鬼に施すご飯粒” のことです。
どのようにご飯粒を施すかというと、よそわれている自分の食事から、7粒程度のご飯粒を箸でとります。
そして反対の手の平をご飯粒の下にもってきて、その手の平の上で箸と共にご飯粒を2周半まわします。
まわし終わったら自分の食卓の奥にそのご飯粒を供えます。

生飯を施すというのは、自分たちが食べる前にまず餓鬼道に落ちた餓鬼に施す(分け与える)、という行いなんだそうです。
(お供えしたご飯粒は、給仕係が食事の後に回収して外に供えます)
自分だけで頂くのではなく、分け与える心の実践なんですねー

生飯が終わっても、まだ食事は始まりません。3回目のお経を唱えます。

「この食を捧げます。この命がすべてのものに届きますように。
良い行いをすること、悪い行いを断つこと。
自他共に、穏やかなることを一口ごとに念じいただきます」

ようやく、ようやく食べることができました~!
感謝を捧げて頂く食事は、贅沢なお料理ではないけれど、なんだか特別に感じます。

食べ終わって器を洗い、4回目のお経を唱えます。
「器を洗った水は、たとえようのない尊さで充たされています。全てのものにお返しいたします。あらゆる世界が平和で円満な恵みで充たされますように」
器をしまい、一同合掌。

長かったお食事が終わりました。

食べ物を口にするまで、こんなにもたくさんの感謝を捧げ、自分を戒め、分け与えるなんて。
自分が頂くのは、紛れもなく“命”。疎かには絶対に出来ない、という感覚になりました。
毎日、毎食、ここまでの思いで食事をすることは無理だけど、日を決めるなどして生活に取り入れるのもいいなって思います。

気になる家族の反応は・・・

さぁ、この体験を生かして、子どもたちに食べ物のありがたさを伝えられるかどうか・・・

家に帰って、お寺でのことを思い返しながら心を込めて作った夕飯。

食べる前に家族みんなで、わかりやすい日本語にしたお経の文章を声に出して読み上げました。

3歳の健人はきょとん。そのあとそわそわ。じっとしていられません。「早く食べようよー!」
小1の藻々は、「音読の宿題みたいー♪」と姿勢よくハイテンション。

「ただ空腹を満たすだけの食事になってないか、考えるようにするよ・・・」
営業職で残業や飲み会の多い旦那の健一が、一番思うところがあったようです。

“お寺の食事作法を学ぶ会”に行って以来、ふとした瞬間にあの体験を思い出し、“命”を頂いていることを忘れていないか、感謝できているか自問自答しています。

16.01.015_1

この記事を書いた人

みどり

みどりの作ってみたくなるお料理担当。わくわくすること、食べることが大好き。二児の母で、専業主婦。

関連記事